この手元にあるちっぽけな機械の話をするまえに、いくつか話しておかなければならないことがある。
何から話したらいいのか。
前時代的な価値観なんて、とうに記憶の彼方に置いてきてしまったものだから、いざ、昔の価値観に従って表現しようと思っても、なかなかできるものじゃない。
とにかく、世界にあふれたのはプライバシーだった。
プライバシーを守ること、これが僕らよりちょっと前の世代のオピニオンリーダーたちが徹底したことらしい。
何者にも侵されることのない孤高。自分の自分たる源泉。ようやく、人類はそれを確固たる所有物にすることに成功したわけだ。
今では、誰もが誰にも興味を持たない。
こういう書き方をすると、古い時代の人には誤解されるらしい。しかし、それが一番しっくりくる表現なのだからしょうがない。
例えば、僕らのまわりには様々な人がいるだろう。父や母や兄弟といった身内や、学校での教師、友人といった直接的な知人。それから、メディア上での著名人やネット上での友人といった間接的な知人。
僕らは、これらの人々に関する様々な情報を持っている。個体差はあるけど、だいたいのところ出身地や、家族構成、好きな食べ物や好きな音楽などの嗜好、といった種類の情報がほとんど。それと、つきあっていく上で、僕が判断してつけ加えた二次的な情報(こいつが怒ってるときは近づかない方が良い、とかそういうヤツ)などもある。
どれも、一緒に生活していく上で自然に得た知識であって、ムリヤリ仕入れたものではない。現在、知っている以上の知識が入れば受け入れるだろうけど、別に好き好んで詮索しようとも思わない。興味がないのだ。
そんな情報を知らなくても人間関係に影響はないし、また、知ったところで関係に変化が生ずることもない(何を当たり前のことを書いているのだ、僕は…)。
昔の人は、他人の個人的な情報に対して尋常じゃないほどの興味を覚えたらしい。その反面で、そういった情報を得ようとすることは悪だ、とも考えていたようだ(嘘のような話だし、確かめる術はないのだが、本当のことらしい)。
だから、自分のプライバシーを守ることや、他人のプライバシーを暴くことに全力を尽くしたのだそうだ。
やがて、プライバシーは保護されるようになり、他人のプライバシーを暴こうなんて、もってのほかだ、という風潮がトレンドとなった。
そして、ジェネレーションが交代し、それが当たり前になった。その結果、皮肉なことに個人情報に誰も興味を持たない世の中になってしまった。
それ故、聞かれればどんな個人情報でも公開してくれるはずだ。もちろん、前科、病歴などといったものも含めて(何故こういう補足をしたかというと、昔はこういうことが知られると、「差別」などの原因になったらしい、と聞いたから)である。
ただ、誰も他人の情報に興味を持っていないので、普通は訪ねない。訪ねられた方は、他人に知られてもどうということはないので、包み隠さず答える。所詮は世間話レベルなのである。
もちろん、差別はなくなった(というか、イマイチ、「差別」っていう単語の示すイメージが掴みづらいんだけどね。だから、もし認識が間違っていたらゴメン)。
調べたところ、「個体どうしの何らかの情報(主なものは民族とか肌の色とかで、果ては性別とか病歴とか身内の犯罪歴とか)の差異に優劣をつけて、優れていると認定された方(あくまで主観的に)が、劣った方をおとしめる」という概念のことのようだ。
でも、おかしな話だね。個体同士が違った情報を持っているのは至極当然のことだし、それによって人格が変化するわけでもないのに。
そこで気がついた。古い世代の人類は、自分のパーソナリティに帰属しない部分で何者かよりも自己が優れていると認識し、また認識されていないと、同一性が保てなかったに違いない。その時点での人類は、まだ集合体として若かったのだろう。だから、差別排斥のための運動も、博愛主義的な切り口(誓ってギャグじゃない。彼らは本気だったのだ)で行われなければ、受け入れられなかったのだろう。
無駄が多くて笑える。なんとなく、古い世代に愛着感がわいてきた気がする。
話題が少々それたみたいだ。結局のところ、現代の人類にとって、個人のパーソナリティこそが、最も侵されてはならないものであり、評価されるのもパーソナリティであるから、差別という概念は当然、存在しないのであるということ。概念として掴んでくれただろうか?
こういうのをパラダイム・シフトと云うらしい。「らしい」と表現したのは、その言葉の意味を詳しく知らないからだ。
とにかく、人々は鬱陶しいすべてのものから解放され、何からも干渉を受けないパーソナリティを手に入れた。
断言しよう。人間は進化した。進化して、愛すべき隣人を失っても、ただ一人で生きていける至高の精神を得た。
もう、人類は、手に入れた「自由」を手放すことはできない。だから、自由と一緒に手に入れた「孤独」を手放すことも、できなくなってしまったのだ。
現代人は、何らかの孤独感を常に背負って生きている。
誰かにすがりたいとか、周囲に誰かついていて欲しいとか、そういった類の孤独感ではない。誰にすがりたくもないし、他人に頼らなくては生きていけないわけではないのだ。
その孤独感は、もっと存在の根本的なところにある漠然とした感覚である。どちらかというと、人間という種そのものとしての孤独感に近い(「神の孤独」と表現した者がいたが、神という概念もよくわからないので、イマイチしっくりこない)。
とにかく、人間はつねに孤独感と隣り合わせに生きているのだ。
そして、孤独感を手放すことは、多分できない。その孤独感とともに、せっかく得た自由まで消えてしまうのだから。
その孤独感を癒すもの、なのかどうかはわからないが、僕らには携帯が義務づけられている「物」がある(それを紹介するために、前提を話し始めたのだが思いの外、長話になってしまったね)。
カタチは、そうだな…はるか昔に流行した携帯電子ペットなんかを思い出してもらえばいいかもしれない。すっぽり手のひらに納まるサイズで、中央に高解像度の小モニターが付いている。僕らは、それを「PP(パーソナル・パートナー)」と呼び、いかなるときでも身につけているようにしている。
携帯が義務づけられている、とはいっても不携帯で罰せられることはない。しかし、僕らはPPを持ち続ける。
モニターの中には、常に一人の人間の映像が映し出される。決してCGではない正真正銘、どこかに生活しているはずの人間の姿が、である。
僕のPPにも、一人の女性の姿が表示されていた。
大抵、PPに表示されるのは、持ち主と同じ年代の異性であることが多い。名前も知らない、どこに住んでいるかもわからないその女性。多分、この先も会うことのないであろう人物。僕は、彼女を物心ついたときから知っていた。
PPに表示されている人物がどこに住んでいて、どんな人格であるか? そんなことには、誰も興味を持たない(知ったところで、どうとも思わないのだけれど)。僕らは、たまにふと淋しいと思ったとき(あるいは一日中)、PPを取り出して眺めるだけである。
何故か、心が落ちつく。
不思議なものだ。
そうそう、万が一の話だが、PPの中のパートナーが犯罪を犯したとしても、誰も通報などはしない。それどころか、法律上、PP上でモニターされた行動に関しては、証拠として認められないことになっている。
モニターの中の彼女を観察していると、たまにPPを取り出してモニターの中を見つめていることがある。きっとその中にも、僕らと同年代の人物が表示されているのだろう。
ついでに言うなら僕も、誰かにモニターされているハズである。僕が生まれたときから、そして多分、僕が死ぬときまで、見つめ続けてくれる女性がこの世のどこかに存在するのだ。
誰にも干渉されない孤独の世界の中で、僕らが一人ではないと実感させてくれるパートナー。それがPPなのだ。
僕のパートナーの話をしよう。
彼女は、どうやら比較的裕福な家の生まれで、特に不自由することもなく健康的に育ったようだった。
通信教育ではない「本当の学校」に通い、友人関係にも恵まれていた。彼女は中学生の時、最初の恋をした。大昔のラブコメディのような微笑ましい恋愛だった。
無茶なイタズラをして大ケガをしたときもあった。
大学を卒業するまでに大きな失恋を2度、した。
飼っていたポメラニアンが、事故で死んだ。
彼女が初めて男性を知ったときも、彼女が結婚したときも、彼女が子供を出産したときも、僕はずっと彼女のことを見ていた。
ある夜は、一晩中、PPに語りかけていた。
「また会おう」と約束して別れた友人のうちの何人かには、結局、会えなかった。
旅行で僕の住むエリアの近くを通りかかったこともあった。
笑っているときも、泣いているときも、怒っているときもあった。
平凡で、特にこれといって特徴のない人生だったと思う。
そのパートナーが、今朝、この世を去った。
老衰だった。
彼女の死を察した途端、年老いた僕の頬をとめどない涙がつたった。
それは、僕が生まれて初めて、他人のために(自分のために?)流した涙だった。
END